伊達家『竹に雀』家紋 伊達政宗博物誌 伊達家伯記念會 〒980-0805 宮城県仙台市青葉区大手町10-23伊達遊学舎 TEL 022-213-4840
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伊達家の家紋


伊達政宗博物誌

伊達政宗博物誌(だてまさむねはくぶつし)無断転載(むだんてんさい)(きん)じます。

伊達家家紋『竹に雀』

伊達家家紋(かもん)(たけ)(すずめ)
伊達政宗甲冑姿木像(瑞巌寺 蔵)CG作成
伊達政宗甲冑(かっちゅう)姿(すがた)木像(もくぞう)瑞巌寺(ずいがんじ) (ぞう))CG作成(せいさく)

伊達家(だてけ)草創(そうそう)


 伊達家(だてけ)始祖(しそ)朝宗(ともむね)藤原山蔭(ふじわらやまかげ)子孫(しそん)といわれ、常陸国真壁郡伊佐庄中村(ひたちのくにまかべぐんいさのしょうなかむら)(りょう)していましたが、文治(ぶんじ)5年(1189)源頼朝(みなもとのよりとも)奥州征伐(おうしゅうせいばつ)(したが)い、その軍功(ぐんこう)により伊達郡(だてぐん)福島県(ふくしまけん))を拝領(はいりょう)伊達を氏としました。
鎌倉幕府(かまくらばくふ)滅亡(めつぼう)後、南北朝(なんぼくちょう)動乱(どうらん)から室町初期(むろまちしょき)にかけて伊達家(だてけ)は中央の政治情勢(せいじじょうせい)対応(たいおう)しつつ勢力(せいりょく)拡大(かくだい)し、14(せい)稙宗(たねむね)、15世晴宗(はるむね)、16世輝宗(てるむね)の三代で戦国大名(せんごくだいみょう)としての基盤(きばん)(かた)めました。内政的(ないせいてき)には稙宗が天文(てんぶん)年(1536)に「塵芥集(じんかいしゅう)」(分国法(ぶんこくほう))を制定(せいてい)し、権力(けんりょく)組織強化(そしききょうか)を行いました。
しかし、伊達家内では稙宗と晴宗間の覇権(はけん)路線(ろせん)対立(たいりつ)による内乱(ないらん)「天文の(らん)」が()こり、その後晴宗は居城(きょじょう)長井庄米沢(ながいしょうよねざわ)(うつ)しました。
 

伊達朝宗画像 複製
伊達朝宗画像(だてともむねがぞう) 複製(ふくせい)伊達泰山文庫(だてたいさんぶんこ) (ぞう) 

独眼竜(どくがんりゅう)伊達政宗(だてまさむね)


 伊達政宗は永禄(えいろく)10年(1567)8月3日、伊達家16世輝宗(てるむね)長男(ちょうなん)として米沢城(よねざわじょう)山形県(やまがたけん))で生まれました。幼少(ようしょう)のころ疱瘡(ほうそう)()右眼(みぎめ)失明(しつめい)しましたが、天正(てんしょう)5年(1577)11歳で元服(げんぶく)伊達家(だてけ)中興(ちゅうこう)9世政宗(まさむね)の名をつぎ、藤次郎(とうじろう)政宗と名のりました。
 天正9年(1581)5月、15歳で初陣(ういじん)天正12年、18歳で伊達家を相続(そうぞく)し、以来(いらい)人取橋(ひととりばし)(たたかい)葦名(あしな)岩城(いわき)佐竹(さたけ)連合軍(れんごうぐん)撃退(げきたい)磐梯山麓(ばんだいさんろく)摺上原(すりあげはら)合戦(がっせん)宿敵(しゅくてき)葦名義広(あしなよしひろ)(ぐん)(やぶ)り、天正17年、会津(あいづ)黒川(くろかわ)若松(わかまつ))城に入城(にゅうじょう)奥州(おうしゅう)大半(たいはん)伊達家(だてけ)支配下(しはいか)となり、「独眼竜政宗」の異名(いみょう)天下(てんか)(とどろ)かせました。天正19年豊臣秀吉(とよとみひでよし)麾下(きか)(ぞく)した政宗は、その(めい)(したが)葛西(かさい)大崎(おおさき)一揆(いっき)鎮定(ちんてい)し、米沢より岩出山(いわでやま)城に(うつ)りました。

伊達政宗甲冑姿木像
伊達政宗甲冑姿木像(だてまさむねかっちゅうすがたもくぞう)
瑞巌寺(ずいがんじ) (ぞう)

仙台藩祖(せんだいはんそ)伊達政宗(だてだてまさむね)


 慶長(けいちょう)5年(1600)関ヶ原(せきがはら)の戦いが終わり、徳川家康(とくがわいえやす)によって天下(てんか)統一(とういつ)()()かりました。城下町(じょうかまち)は慶長15年(ごろ)ほぼ完成(かんせい)し、仙台藩(せんだいはん)62万石(まんごく)政治(せいじ)経済(けいざい)文化(ぶんか)中心地(ちゅうしんち)となりました。一方(いっぽう)産業(さんぎょう)振興(しんこう)をはかり、北上川(きたかみがわ)改修(かいしゅう)流路(りゅうろ)石巻(いしのまき)(ひら)大工事(だいこうじ)(おこな)い、船運(せんうん)灌漑(かんがい)便(べん)をはかりました。また、大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)造営(ぞうえい)瑞巌寺(ずいがんじ)復興(ふっこう)さらには、外国(がいこく)交易(こうえき)意図(いと)し、家臣(かしん)支倉常長(はせくらつねなが)をヨーロッパに派遣(はけん)するなど、後半生(こうはんせい)仙台藩(せんだいはん)基礎(きそ)づくりに尽力(じんりょく)しました。 

仙台城CG仙台城(せんだいじょう)CG
(写真(しゃしん) 青葉城本丸資料展示館(あおばじょうほんまるしりょうてんじかん) 協力(きょうりょく)


慶長遣欧使節(けいちょういおうしせつ)


 慶長(けいちょう)18年(1613)9月15日、伊達政宗(だてまさむね)家臣(かしん)支倉常長(はせくらつねなが)をローマに派遣(はけん)しました。海外(かいがい)に7年(あまり)りの歳月(さいげつ)(ついや)やした常長の業績(ぎょうせき)は、日本の対外(たいがい)交渉史(こうしょうし)文化(ぶんか)交流(こうりゅう)史上(しじょう)画期的(かっきてき)出来事(できごと)として「慶長遣欧使節(けいちょういおうしせつ)」の名で知られ、政宗の雄大(ゆうだい)気宇(きう)(しめ)すものでした。
その目的(もくてき)宣教師(せんきょうし)派遣(はけん)とスペイン(りょう)との通商(つうしょう)(もと)め、同時(どうじ)最先端技術(さいせんたんぎじゅつ)文化(ぶんか)輸入(ゆにゅう)することにありました。1615年11月3日、常長はローマ法王(ほうおう)パウロ5世に謁見(えっけん)し、政宗(まさむね)書状(しょじょう)(てい)しましたが、使節(しせつ)を派遣した政宗の資格(しかく)真意(しんい)とが疑問(ぎもん)とされ、また、幕府(ばくふ)方針転換(ほうしんてんかん)によるキリシタン迫害(はくがい)激化(げきか)という状況(じょうきょう)の中、政宗の請願(せいがん)(みと)められず、元和(げんな)6年(1620)8月26日、常長は失意(しつい)()仙台(せんだい)帰還(きかん)、元和8年7月1日、52歳で病没(びょうぼつしたと(つた)えられています。
 
復元船サン・ファンバウティスタ号復元船(ふくげんせん)サン・ファンバウティスタ号
(写真 財団法人(ざいだんほうじん)慶長遣欧使節船協会(けいちょういおうしせつせんきょうかい) 協力(きょうりょく))

瑞鳳殿(ずいほうでん)


 瑞鳳殿(ずいほうでん)寛永(かんえい)13年(1636)5月24日、江戸(えど)桜田屋敷(さくらだやしき)で70年の生涯(しょうがい)()じた伊達政宗(だてまさむね)御霊屋(おたまや)墓所(ぼしょ))です。瑞鳳殿は2代藩主(はんしゅ)忠宗(ただむね)によって建立(こんりゅう)され、本殿(ほんでん)拝殿(はいでん)唐門(からもん)御供所(ごくしょ)涅槃門(ねはんもん)からなる桃山様式(ももやまようしき)華麗(かれい)廟建築(びょうけんちく)であり、昭和(しょうわ)6年(1931)国宝(こくほう)指定(してい)されましたが、昭和20年7月10日の仙台空襲(せんだいくうしゅう)により焼失(しょうしつ)しました。現在(げんざい)の瑞鳳殿は昭和54年に再建(さいけん)されたものです。なお、再建工事(さいけんこうじ)先立(さきだ)って行われた地下墓室(ちかぼしつ)発掘調査(はっくつちょうさ)結果(けっか)、政宗の完全(かんぜん)遺骨(いこつ)(とも)に、武具(ぶぐ)文具類(ぶんぐるい)、またヨーロッパ伝来品(でんらいひん)(おも)われる金製(きんせい)のブローチなどの副葬品(ふくそうひん)が338年ぶりに発掘(はっくつ)されました。

伊達政宗御霊屋瑞鳳殿伊達政宗御霊屋瑞鳳殿(だてまさむねおたまやずいほうでん)
(写真 財団法人瑞鳳殿(ざいだんほうじんずいほうでん) 協力(きょうりょく)
 


伊達泰山文庫シリーズ 現在版『伊達治家記録』仙台伊達家 十八代当主 伊達泰宗著

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